ピヨ助のブログ

朝ドラやラジオが好きな50代の日常です。

久しぶりの更新になりました。

重い話が苦手な方は、今日はスルーしてくださいね。


更新があいてしまいましたが、健康でおります。
仕事も慌ただしかったですが、先日は久々の参加となった異業種交流会的会合にて、神社で新年のご祈祷を受け、遅れ馳せながら新年ぽい前向きな気分になってきました。


会員のみんなと沢山話して交流できたのも良かったなー。
一番の話題はやはり能登地震・・・。
若手の会員さん数人は、じきにボランティアスタッフとして石川県に向かうそうで、頭が下がります。
その中のひとりKくんの娘さん3人は、みんなもらったお年玉を寄附にまわしたらしい・・・
おいお前ら、聞いてるか?少しは見習えよ!(←裏金問題のひとたちに向かって言ってます)
本当に、大人が子供のお手本にならなきゃいけないと思うのに、情けないことですね。


能登地震に関しては、もう全ての初動の遅さに失望したし、岸田さんの言葉も全・刺さらずだったし、仮設住宅をなぜ津波の想定区域に建設するのかも謎だし、何もかもにずっとモヤッとしていました。
これまでの経験から災害関連死の発生の多さをわかっていながら、何も学べてない。
高齢者は最優先で1日も早く即刻安全な場所へ移すべきでした。ドクターヘリを使ってでも。せっかく地震から免れて命が助かっても、問題はこの後です。
一晩避難所で過ごすだけでも、寒さは東京の比ではありません。
雪国なめんなよ、です。岸田さん、試しに泊まってみたらどうかな。


私の義姉一家は、東日本大震災の時に、気仙沼で被災しました。
私が何度も訪れた気仙沼の美しい景色は、見たことの無い光景に・・・。
あの壊滅的な状況下にいた義姉とは、全く連絡がつかず、日一日と私達は徐々に諦めの気持ちで過ごしていました。
しかもよりによって震災の二日前に、何と私の母が自転車に乗ってて、後ろから高齢者の運転する車に追突される事故に遭い、私はそっちにかかりっきりになっていました。(命に別状はありませんでした)


そのため、ガソリンを積んで家人がひとりで捜索に向かおうとしたその朝のことです。
無事だという電話が義姉から来ました。
もう、ヘナヘナになり涙が出てきました。震災発生から6日目のことでした。


まだ保育園に通ってた甥っ子と、義姉と、義兄は、みんなバラバラの避難所へ避難し、道路状況が悪いために、そこからだいぶ経ってから再会できましたが、義姉はこの時のことを、「経験したことの無いショックで、思考が停止していた」「とにかくこれ以上ひとに迷惑かけたくないとだけ思った」と話していました。(あくまでも義姉の言ったことですが)


今、能登を離れたくないと避難所に居続ける方、事情は皆さん色々お有りと思いますが、本当に冷静な判断が果たしてできてるかどうか。
せっかく地震から免れて命が助かったのだから、今は一旦安全なところに移らないと、また命の危険があるんだよ、と、誰かが(岸田さん、あなたが!)強く誘導してあげないと、本当に命を守ることはできないと思います。
被災者の方の中には、義姉のように混乱した状態に陥って我慢している方が、居るかも知れないですから。


義姉も甥っ子も、震災そのものの話は、全くしません。そのまま現在に至っています。
思えば3月11日は義姉の誕生日だったのに・・・。


東日本大震災の当日、家人は福島県郡山市の病院にて、前年に受けた手術の後の検診を受けていました。
検査後の帰り道で大きく揺れ、連絡が途絶えたあと、なんとか夜中に帰宅しました。


私はその日、母の事故のことを聞きつけた私の仕事関係者が、急遽予定を変更して見舞いに来てくれたため、自宅で待機中(母は病院で治療の最中だった)、その方が丁度やってきた時に揺れたのでした。
急な災害に、見舞いの品を置くやいなや、会社から「すぐ戻ってきて」と言われ帰りましたが、後日その方から電話で「あなたのお母様に命を助けられました。あの日わたしは南三陸町へ営業で訪問する予定をしていたのです」と、涙声で告げられ、言葉がありませんでした。


ブログ内で「家人」と呼んでいるのは私の夫のことであり、彼は2019年7月に、肺腺がんのため、51才で旅立ちました。
診断からたった3ヶ月のことでありました。
それにはいくつかの不運が重なってのこともあるし、病気の種類が異質なものだったのかも知れないし、或いは夫が生まれた時から背負ってきた宿命だったかも知れないという気もします。
闘病で入院した3ヶ月間、私はほぼずっと夫と過ごし(コロナ禍に突入する前だったので)、それは途轍も無く苦しく、けれど彼と共に過ごした17年の中で、最も幸福な3ヶ月でもありました。
あの3ヶ月を、何と呼んだらいいのかな・・・


わずか1週間足らずで2倍の大きさとなるような進行のスピード。抗がん剤は奏効することなく、ただただがん細胞の増殖に副作用が重なったかのように、体調は悪化の一途を辿りました。
私はその際に、遺伝子検査の結果に沿ってない薬の選定で治療をすすめられたことに、疑問と憤りを覚え、主治医を始めスタッフに不信感を持ち始めていました。
さらには、私の中学の同級生だったIさんという方が緩和ケアのスタッフだったのですが、彼女は、同級生の家族、という気安さからか(あるいはそういうやり方を通してるのか?)、頻繁に私の不在時に夫の病室を訪れ、夫を不安にさせていました。
たまりかねた私は、スタッフの方の一人に、Iさんに出入りさせぬようお願いしました。


その後、咳と血痰、高熱、肺炎と、もぐら叩きゲームのようにあらゆる症状が顔を出し、胸水も腹水もパンパンに溜まり、横臥も出来なくなって、ベッドの机につっぷして眠る日々でした。
けれど夫は、決して弱音を吐かず、泣いてしまうのはいつも私の方で、するといつでも、「こんなことで泣くな、オレは大丈夫だ。」と私に言ったものです。


夜の間中ずっと、咳も血痰も発熱も続くようになりました。
既に頑張りきってると思うのに、夫は絶対諦めませんでした。
私は毎日夫の身体を拭くのを手伝い、髪を洗い、足湯をし、マッサージをしました。


そのうち進行のために緩和治療になり、病状がコントロールされ安定した日が続いてからは、コーヒーやカフェラテを飲んで、二人でお笑いの動画を観たり、旅行の写真を見直したり、お喋りに明け暮れました。
夫は昔からお笑い系でしたが、入院中も苦しい時でさえ、とにかく毎日私を笑わせてくれてました。
あんなに恨んでいた主治医やスタッフの方々(厳密には半分ぐらい・・)にも、夫のために尽くしてくださってることに、感謝の気持ちが湧いてきて、私自身はもう悔いはなくなっていました。


最期の日は義姉もそばについてくれ、3人でカフェラテを飲みながら夫のバカ話を聞き、涙が出るほどゲラゲラ笑って過ごしました。
そしてその数時間後、「お笑いライブ」はあっけなく幕を閉じたのです。


そのせいか、夫の死に顔が笑顔だったことに、誰もが通夜の席で驚きました。
そして夫の話をしてくれる方々が、「アイツ、ほんとにアホなヤツだったよなあ」と、笑いながら悲しんでくれて、それがホントに嬉しかった。
夫にとって、最高の供養だなあって思いました。明るく悼んでもらえるって幸せです。


夫は本当に頑張ったし、諦めずに闘い続けた姿は世界一カッコ良かった。
病室もそうでしたが、家中どこを見ても、「夫が頑張った場所」と誇りに思え、ただただ夫を讃えたくなります。
3ヶ月間の、どの夫を思い出しても、決意と気迫に満ちていて、それは、今の私の大きな支えとなっています。


一方で、夫を失ってからの私は、死んだように生きてきたと思います。
まず、私にとってこの経験は2度目であるということが、重かった。
1度めは戸籍を共にする直前の経験で、その彼は、交通事故死でした。
この時は、若かったゆえ這い上がる術が無く、こんな風に考えが及ばなかったので、私だけが生き残ってて申し訳なくて、むやみやたらに苦しみました。


これは夫に対しても同じで、2回も病魔に冒され、若くして人生を終えてしまう不幸を、本当に不憫だと思ったし、私のせいだと悔やんだし、それでもせめて夫の魂が安らかであるように、供養につとめるしかないと思って、今日までそうしています。


ラリー・バークダル著「ナゲキバト」に、「わしら人間は、祈るなら、苦しいことの意味を理解するのを助けてほしいと祈るべきだ。苦しいことを取り除いてほしい、と祈るのではなくね」という一節があります。
私は毎朝夫へ向けて(信仰も無いけど)「般若心経」の読経をおこなっていますが、意味合いとしては通じるものを感じます。
でも流れ星を見ても、満月を見ても、夫が元気でいるよう祈ってしまうし、私のしてることは仏教の形式から外れてるんだろうな(笑)


経験が多ければ悲しみに慣れる、などと思う人もいるかも知れないけど、そんなことあるわけはなく、今回、またあの時の悲しみをなぞっていくのかと思ったら、絶望を超えていました。
周りもそう感じていたと思うので、私はなるべくそこを考えない(「なぜ私だけ」と掘り下げようものなら、頭がおかしくなると思いました)ように意識して過ごしました。


仕事以外では人に会わず、家からあまり出ないのも、そのためです。
静かにひとりでじっとしていたかった。浸って居たいということではなく、動くと傷口がすぐ広がってしまう気がしたのです。私は自力で救われたかった・・・


ブログでは、ずっとこのことを明かさずに、明るいことだけを書き続けようと思っていました。これが、荒療治と思いきや、意外にだんだん脳が勘違いしてくれて、明るさの方に引っ張られてくれている気がします。
演じてたということでは無いですよ。ひとには側面と言うものが必ずあるのです。


今日は吐き出すように書いてしまいましたが、こうして文字や文章にするのに4年半かかっています。
書きたくないというのではなく、書くことが出来ないでいたのです。
ようやく、義姉が震災について語らない心境に辿り着いたわけです。
昨年11月に亡くなられた作家の伊集院静さんも著書の中で、被災者の方々の心境を「話さないのではない。話せないのである。」と書いておられました。


先日のこと、夫の仏壇のお花を買いにお花屋へ向かった際、何と店内で花を買っているIさんを外から見かけました。
彼女は、若いうちにお母様を、そして最近お父様を亡くしたと、風の噂で聞いていましたが、手に抱えた仏壇用と思われるお供え花と彼女の顔を見た時、彼女への恨みがスッと消えました。
彼女もまた大切な人をこうして悼んでいるのだとわかりました。


これも伊集院静さんが著書で「不運と思うな。己を不運と思った瞬間から生きる力が停滞する 同時に周囲の人たちを切なくしてしまう。もっと辛い人は世の中にゴマンといる。」とも書いています。
かくありたいと、いつも心に刻んでいる言葉です。


不幸を比べるということでは無いのですが、私は、病気によって病院で死ねるというのは、まだ幸せなことなんだろうだと思います。
それは看護に献身できた時間を得られた私だから言えることかもしれませんが、私にはやはりどうしても、地震などで災害死された多くの方々のことが頭にあります。
戦争もそうですが、災害や事故は人を選ばないということ、命の重さはみんな一緒なのに、人間の尊厳とはかけ離れた亡くなり方をするひとが居るということ、それは絶対に忘れてはいけないと思います。
なので、殊更に自分を不幸だと思わないよう、また、偶々災害に遭わずにいる状況を、特別幸運だなどと思いあがらないよう、せめて謙虚な考えでいようと思います。


同じように大切な存在を失った方々には、どうかご自分をいたわってほしいと願いますし、元気でいてほしいといつも思いながら、読ませて頂いています。


そういうことで次回からは、何事も無かったかのように通常の明るいブログに戻します。
まだたまに落ちてしまうときもありますが、明るさに引っ張られるようにしたいです。
重い長文に関わらずご覧くださった方、本当に本当に、ありがとうございました。